「地域の人たちに恩返しがしたい」東日本大震災を乗り越え、国際大会でメダルを
全日本プッシュスケルトン選手権で5連覇中
うつ伏せで頭を進行方向に向けて鉄製のそりに乗り、全長1300~1500mの氷のコースをわずか1分程で滑り降りるスケルトン。「元々、ジェットコースターが好きだった」と言う仙台大学3年生の木下凜選手(りん、宮城県出身)は小学6年生の時に地域のジュニアアスリート発掘事業でスケルトンを体験し、「とにかく楽しかった」ことから、中学入学とともに本格的に競技を始めました。
スケルトンを始めて4年目の2017年には、スタートタイムを競う全日本プッシュスケルトン選手権大会で、高校1年生ながらシニアの選手たちを退け、日本タイ記録のタイムで初優勝。それ以降、2度の日本記録更新を含め、2021年までに大会5連覇を遂げています。日本代表として国際大会に出場する機会も増え、2021年12月のワールドカップは出場30選手中22位だったものの、「プッシュタイムが全体の2位だったことで、世界の舞台で戦えるスタートラインに立てた」と確かな手応えをつかみました。
スケルトンの疾走感に魅了され、すぐにのめり込んだ
東日本大震災で地域の人たちが助けてくれた
宮城県石巻市出身の木下選手は、小学3年生の時、東日本大震災を経験しました。自宅は流され、「それまでの日常がすべてなくなり、大きなショックを受けた」と当時を振り返ります。仮設住宅での生活を経て、中学入学を機に多賀城市に移りましたが、木下選手には、「たくさんの方に助けてもらったので、地域の人たちに恩返しがしたい」という思いがあり、その一つがスケルトンで活躍することだと考えるようになりました。
そんな折、日本ボブスレー・リュージュ・スケルトン連盟のスタッフから明治安田生命「地元アスリート応援プログラム」を紹介されました。「地元に対して貢献したいというアスリートの活動を支援するというプログラムのテーマと、自分の気持ちが合致して、ぜひやりたいと思って応募しました」と木下選手。これをきっかけにスケルトンという競技をもっと広めたいという思いもあります。
東日本大震災で実家が流され、中学進学を機に多賀城市へ移り住みました
木下選手が所属する仙台大学は、中学でスケルトンを始めた頃からのトレーニング拠点です。生まれ育った石巻市には、子どもの頃、毎週のように通った漫画家・石ノ森章太郎のミュージアム「石ノ森萬画館」や、タレが絶品の焼き鳥店「やまだ」があり、海の幸は四季折々の新鮮なネタを楽しめます。現在生活をしている多賀城市には、稲の原種に近い紫色の「古代米」という名産もあります。そんな地域の人たちからは「この間の試合を見たよ」「お疲れさま」とよく声をかけられ、自分が応援されていることを実感します。震災を経験したからこそ、木下選手は誰よりも強い地元への愛着を持っているのかもしれません。
中学2年で訪れたターニングポイント
今、振り返ると、競技を始めて2年目、目標にしていた「ユースオリンピック出場がかなわなかったことがターニングポイントだった」と木下選手は考えています。
当時は中学2年生で、「体も小さく、プッシュも滑走も速くなかったので、自分に伸びしろを感じなかった。スケルトンをこのまま続ける意味があるのかと悩んだ」と言います。そこでお母さんに相談すると、「やめるのは簡単だけど、例えやめるにしても、今まで応援してくれた人たちが納得するようなやめ方をした方がいいんじゃない?」と言われ、自身も「うまくいかないからやめるのではなく、完全にやり切って満足できたと思えるまでやってみよう」と考え直しました。
そこから木下選手は競技に対する意識が変わり、トレーニングはもちろん、体重アップなどを考慮した食事にも気を配るようになりました。その結果、高校生になってからの大きな飛躍につながったわけです。高校3年間で体重は22kgも増えました。
滑走技術を磨き、国際大会での活躍を誓う
今後について木下選手は、「まずは自分の強みであるプッシュで世界で一番になること。滑走技術もレベルアップして、ワールドカップや世界選手権などの国際大会で活躍し、4年後にミラノである大会で金メダルを獲得したいです」と青写真を描いています。そのために、得意のプッシュを磨きつつ、「これからは滑走技術の強化に重点を置いていく」つもりです。
今シーズン、全日本の連覇記録を6に伸ばすことも大きな目標です
ただ国内には現在、氷上を滑走できるコースがなく、技術を磨くには海外に遠征するしかありません。また、0.1秒が勝敗を左右する世界では、用具にも徹底的にこだわっていく必要があります。本体部分のシャーシーと、ランナーと呼ばれる滑走部で構成されるそりが重要で、特にランナーはコースや気象コンディションで使い分けないとタイムに大きく影響します。
そりは1台約70万円。1セット10万円前後するランナーは、多くの種類を備えている方が望ましいとされています。木下選手は今回の支援金を「トップレベルのそりやランナー、ケア用品の購入や、国内外の強化合宿に使いたい」と語ります。
木下選手が大切にしているのは、自分の考えだけに固執せず、いろいろな意見に耳を傾け、実際に試してみること。スケルトン未経験者の感想を参考にすることもあります。「自分にとっては関わってくれる人すべてがコーチ。試合での勝利はそういう人たちと一緒に勝ち取った勝利になります」。国際大会でメダルを獲得し、応援してくれた人たちに喜んでもらうことが今の木下選手の原動力になっています。
(取材・制作:4years.編集部)
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「地域の人たちに恩返しがしたい」東日本大震災を乗り越え、国際大会でメダルを全日本プッシュスケルトン選手権で5連覇中 うつ伏せで頭を進行方向に向けて鉄製のそりに乗り、全長1300~1500mの氷のコースをわずか1分程で滑り降りるスケルトン。「元々、ジェットコースターが好きだった」と言う仙台大学3年生の木下凜選手(りん、宮城県出身)は小学6年生の時に地域のジュニアアスリート発掘事業でスケルトンを体験し、「とにかく楽しかった」ことから、中学入学とともに本格的に競技を始めました。 スケルトンを始めて4年目の2017年には、スタートタイムを競う全日本プッシュスケルトン選手権大会で、高校1年生ながらシニアの選手たちを退け、日本タイ記録のタイムで初優勝。それ以降、2度の日本記録更新を含め、2021年までに大会5連覇を遂げています。日本代表として国際大会に出場する機会も増え、2021年12月のワールドカップは出場30選手中22位だったものの、「プッシュタイムが全体の2位だったことで、世界の舞台で戦えるスタートラインに立てた」と確かな手応えをつかみました。 スケルトンの疾走感に魅了され、すぐにのめり込んだ 東日本大震災で地域の人たちが助けてくれた宮城県石巻市出身の木下選手は、小学3年生の時、東日本大震災を経験しました。自宅は流され、「それまでの日常がすべてなくなり、大きなショックを受けた」と当時を振り返ります。仮設住宅での生活を経て、中学入学を機に多賀城市に移りましたが、木下選手には、「たくさんの方に助けてもらったので、地域の人たちに恩返しがしたい」という思いがあり、その一つがスケルトンで活躍することだと考えるようになりました。 そんな折、日本ボブスレー・リュージュ・スケルトン連盟のスタッフから明治安田生命「地元アスリート応援プログラム」を紹介されました。「地元に対して貢献したいというアスリートの活動を支援するというプログラムのテーマと、自分の気持ちが合致して、ぜひやりたいと思って応募しました」と木下選手。これをきっかけにスケルトンという競技をもっと広めたいという思いもあります。 東日本大震災で実家が流され、中学進学を機に多賀城市へ移り住みました 木下選手が所属する仙台大学は、中学でスケルトンを始めた頃からのトレーニング拠点です。生まれ育った石巻市には、子どもの頃、毎週のように通った漫画家・石ノ森章太郎のミュージアム「石ノ森萬画館」や、タレが絶品の焼き鳥店「やまだ」があり、海の幸は四季折々の新鮮なネタを楽しめます。現在生活をしている多賀城市には、稲の原種に近い紫色の「古代米」という名産もあります。そんな地域の人たちからは「この間の試合を見たよ」「お疲れさま」とよく声をかけられ、自分が応援されていることを実感します。震災を経験したからこそ、木下選手は誰よりも強い地元への愛着を持っているのかもしれません。 中学2年で訪れたターニングポイント今、振り返ると、競技を始めて2年目、目標にしていた「ユースオリンピック出場がかなわなかったことがターニングポイントだった」と木下選手は考えています。 当時は中学2年生で、「体も小さく、プッシュも滑走も速くなかったので、自分に伸びしろを感じなかった。スケルトンをこのまま続ける意味があるのかと悩んだ」と言います。そこでお母さんに相談すると、「やめるのは簡単だけど、例えやめるにしても、今まで応援してくれた人たちが納得するようなやめ方をした方がいいんじゃない?」と言われ、自身も「うまくいかないからやめるのではなく、完全にやり切って満足できたと思えるまでやってみよう」と考え直しました。 そこから木下選手は競技に対する意識が変わり、トレーニングはもちろん、体重アップなどを考慮した食事にも気を配るようになりました。その結果、高校生になってからの大きな飛躍につながったわけです。高校3年間で体重は22kgも増えました。 滑走技術を磨き、国際大会での活躍を誓う今後について木下選手は、「まずは自分の強みであるプッシュで世界で一番になること。滑走技術もレベルアップして、ワールドカップや世界選手権などの国際大会で活躍し、4年後にミラノである大会で金メダルを獲得したいです」と青写真を描いています。そのために、得意のプッシュを磨きつつ、「これからは滑走技術の強化に重点を置いていく」つもりです。 今シーズン、全日本の連覇記録を6に伸ばすことも大きな目標です ただ国内には現在、氷上を滑走できるコースがなく、技術を磨くには海外に遠征するしかありません。また、0.1秒が勝敗を左右する世界では、用具にも徹底的にこだわっていく必要があります。本体部分のシャーシーと、ランナーと呼ばれる滑走部で構成されるそりが重要で、特にランナーはコースや気象コンディションで使い分けないとタイムに大きく影響します。 そりは1台約70万円。1セット10万円前後するランナーは、多くの種類を備えている方が望ましいとされています。木下選手は今回の支援金を「トップレベルのそりやランナー、ケア用品の購入や、国内外の強化合宿に使いたい」と語ります。 木下選手が大切にしているのは、自分の考えだけに固執せず、いろいろな意見に耳を傾け、実際に試してみること。スケルトン未経験者の感想を参考にすることもあります。「自分にとっては関わってくれる人すべてがコーチ。試合での勝利はそういう人たちと一緒に勝ち取った勝利になります」。国際大会でメダルを獲得し、応援してくれた人たちに喜んでもらうことが今の木下選手の原動力になっています。 (取材・制作:4years.編集部)
「地域の人たちに恩返しがしたい」東日本大震災を乗り越え、国際大会でメダルを
全日本プッシュスケルトン選手権で5連覇中
うつ伏せで頭を進行方向に向けて鉄製のそりに乗り、全長1300~1500mの氷のコースをわずか1分程で滑り降りるスケルトン。「元々、ジェットコースターが好きだった」と言う仙台大学3年生の木下凜選手(りん、宮城県出身)は小学6年生の時に地域のジュニアアスリート発掘事業でスケルトンを体験し、「とにかく楽しかった」ことから、中学入学とともに本格的に競技を始めました。
スケルトンを始めて4年目の2017年には、スタートタイムを競う全日本プッシュスケルトン選手権大会で、高校1年生ながらシニアの選手たちを退け、日本タイ記録のタイムで初優勝。それ以降、2度の日本記録更新を含め、2021年までに大会5連覇を遂げています。日本代表として国際大会に出場する機会も増え、2021年12月のワールドカップは出場30選手中22位だったものの、「プッシュタイムが全体の2位だったことで、世界の舞台で戦えるスタートラインに立てた」と確かな手応えをつかみました。
スケルトンの疾走感に魅了され、すぐにのめり込んだ
東日本大震災で地域の人たちが助けてくれた
宮城県石巻市出身の木下選手は、小学3年生の時、東日本大震災を経験しました。自宅は流され、「それまでの日常がすべてなくなり、大きなショックを受けた」と当時を振り返ります。仮設住宅での生活を経て、中学入学を機に多賀城市に移りましたが、木下選手には、「たくさんの方に助けてもらったので、地域の人たちに恩返しがしたい」という思いがあり、その一つがスケルトンで活躍することだと考えるようになりました。
そんな折、日本ボブスレー・リュージュ・スケルトン連盟のスタッフから明治安田生命「地元アスリート応援プログラム」を紹介されました。「地元に対して貢献したいというアスリートの活動を支援するというプログラムのテーマと、自分の気持ちが合致して、ぜひやりたいと思って応募しました」と木下選手。これをきっかけにスケルトンという競技をもっと広めたいという思いもあります。
東日本大震災で実家が流され、中学進学を機に多賀城市へ移り住みました
木下選手が所属する仙台大学は、中学でスケルトンを始めた頃からのトレーニング拠点です。生まれ育った石巻市には、子どもの頃、毎週のように通った漫画家・石ノ森章太郎のミュージアム「石ノ森萬画館」や、タレが絶品の焼き鳥店「やまだ」があり、海の幸は四季折々の新鮮なネタを楽しめます。現在生活をしている多賀城市には、稲の原種に近い紫色の「古代米」という名産もあります。そんな地域の人たちからは「この間の試合を見たよ」「お疲れさま」とよく声をかけられ、自分が応援されていることを実感します。震災を経験したからこそ、木下選手は誰よりも強い地元への愛着を持っているのかもしれません。
中学2年で訪れたターニングポイント
今、振り返ると、競技を始めて2年目、目標にしていた「ユースオリンピック出場がかなわなかったことがターニングポイントだった」と木下選手は考えています。
当時は中学2年生で、「体も小さく、プッシュも滑走も速くなかったので、自分に伸びしろを感じなかった。スケルトンをこのまま続ける意味があるのかと悩んだ」と言います。そこでお母さんに相談すると、「やめるのは簡単だけど、例えやめるにしても、今まで応援してくれた人たちが納得するようなやめ方をした方がいいんじゃない?」と言われ、自身も「うまくいかないからやめるのではなく、完全にやり切って満足できたと思えるまでやってみよう」と考え直しました。
そこから木下選手は競技に対する意識が変わり、トレーニングはもちろん、体重アップなどを考慮した食事にも気を配るようになりました。その結果、高校生になってからの大きな飛躍につながったわけです。高校3年間で体重は22kgも増えました。
滑走技術を磨き、国際大会での活躍を誓う
今後について木下選手は、「まずは自分の強みであるプッシュで世界で一番になること。滑走技術もレベルアップして、ワールドカップや世界選手権などの国際大会で活躍し、4年後にミラノである大会で金メダルを獲得したいです」と青写真を描いています。そのために、得意のプッシュを磨きつつ、「これからは滑走技術の強化に重点を置いていく」つもりです。
今シーズン、全日本の連覇記録を6に伸ばすことも大きな目標です
ただ国内には現在、氷上を滑走できるコースがなく、技術を磨くには海外に遠征するしかありません。また、0.1秒が勝敗を左右する世界では、用具にも徹底的にこだわっていく必要があります。本体部分のシャーシーと、ランナーと呼ばれる滑走部で構成されるそりが重要で、特にランナーはコースや気象コンディションで使い分けないとタイムに大きく影響します。
そりは1台約70万円。1セット10万円前後するランナーは、多くの種類を備えている方が望ましいとされています。木下選手は今回の支援金を「トップレベルのそりやランナー、ケア用品の購入や、国内外の強化合宿に使いたい」と語ります。
木下選手が大切にしているのは、自分の考えだけに固執せず、いろいろな意見に耳を傾け、実際に試してみること。スケルトン未経験者の感想を参考にすることもあります。「自分にとっては関わってくれる人すべてがコーチ。試合での勝利はそういう人たちと一緒に勝ち取った勝利になります」。国際大会でメダルを獲得し、応援してくれた人たちに喜んでもらうことが今の木下選手の原動力になっています。
(取材・制作:4years.編集部)
支援期間終了
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支援者
34人
残り期間
0日
集まっている金額
151,000円
目標金額:600,000円
達成率25%
2023年02月28日23:59に終了しました。
支援期間終了
起案者
木下凜(明治安田生命・地元アスリート応援プログラム2022)
当制度を通じて、出身地や活動拠点地域など、サポートを受ける「地元」に対して貢献したいというアスリートの活動を支援します。
1,000円
お礼のメール
リターン
感謝の気持ちを込めて、お礼のメールをお送りします。
支援者の数 23人
支援期間終了
5,000円
お礼のお手紙+YELLS(支援アスリートの当該ブロック)
リターン
感謝の気持ちを込めて、お礼のお手紙、YELLS(支援アスリートの当該ブロック)をお送りします。
※「YELLS」は、地元アスリート応援プログラムに参加するアスリートに関する情報を、全国6ブロックごとにまとめた小冊子です。
支援者の数 4人
お届け予定:2023年4月
支援期間終了
10,000円
サイン色紙+お礼のお手紙+YELLS(支援アスリートの当該ブロック)
リターン
感謝の気持ちを込めて、選手直筆のサイン色紙とお礼のお手紙、YELLS(支援アスリートの当該ブロック)をお送りします。
※「YELLS」は、地元アスリート応援プログラムに参加するアスリートに関する情報を、全国6ブロックごとにまとめた小冊子です。
支援者の数 5人
お届け予定:2023年4月
支援期間終了
20,000円
サイン色紙+お礼のお手紙+オリジナルステッカー+YELLS(全ブロック)
リターン
感謝の気持ちを込めて、選手直筆のサイン色紙とお礼のお手紙、プロジェクトのオリジナルステッカー、YELLS(全ブロック)をお送りします。
※「YELLS」は、地元アスリート応援プログラムに参加するアスリートに関する情報を、全国6ブロックごとにまとめた小冊子です。
支援者の数 2人
お届け予定:2023年4月
支援期間終了