地元の人々に支えられてきた“坪三兄弟”、少し涙もろい最強フェンサーが世界へ
3歳からフェンシングに触れ、中2で世界を意識
フェンシング男子サーブル日本代表で日本体育大学1年生の坪颯登選手(はやと、青森県出身)が、初めて「世界」を意識したのは中学2年生の時でした。
元フェンシング選手で、地元・青森県黒石市の高校教諭でフェンシングを指導していた父の影響で、3歳の頃から体育館に行き、おもちゃの剣を持って遊ぶことからスタート。本格的に競技を始めてからは、2歳上の兄・颯馬(そうま)選手が最大のライバルでした。
「“プレイ、アレ(はじめ)!”の合図でお互いダッシュで駆け寄って、剣を振り回す。お兄ちゃんに負けたくない!というだけなので、今映像を見返すと恥ずかしいです(笑)。青森では兄だけでなく、中学生や高校生、大人の選手とも練習や試合をする機会に恵まれたのですが、どんな相手にも負けるのが悔しいから、泣きながら両手で剣を持って突いたこともありました(笑)」
祖父との別れを乗り越え、アジアカデ優勝
勝負に対する思いの強さと、熱さ。そして武器である「スピード」が生かすべく、中学2年の時に強化育成事業へ参加した坪選手は、本格的にサーブルへ挑戦することを決意しました。わずか7名という少数精鋭の強化チームに選出され、オーストラリア遠征へ。同年代ながら自分よりも身長やパワーで勝る海外勢と戦ったことが、坪選手の負けず嫌いの魂に火をつけました。
「(自分の方が)小さくてもスピードや技術では負けていない。でも試合になるとどうしてもあと一歩が届かず海外の選手に負けてしまうので、日本にいても常に年上の相手や、自分より強い相手に勝ちたいと練習から意識するようになりました」
2019年のアジアカデで、坪選手は様々な思いを背負って戦いました
その結果が形になったのが、2019年のアジアカデ(U17)選手権大会でした。日本代表として出場した坪選手は、スピードを武器に勝ち進み、個人戦決勝は同じ日本代表で1学年上の小久保真旺(まお)選手と対戦。同世代のライバルで、それまではなかなか勝てなかった相手に臆することなく攻め続け、「気づけば勝っていた」と振り返ります。
会心の優勝でしたが、大会直前の悲しい別れも、坪選手を勝利へ導く力になりました。
「(父方の)祖父が亡くなったんです。見せることはできませんでしたが、すぐ父に電話をして『優勝したよ』と報告しました。少しは祖父に恩返しできたかな、喜んでくれるかな、と思ったら、電話をしながら泣いてしまいました」
地元を離れ、相次ぐケガ……響いた弟の一言
幼少期を過ごした黒石市から、フェンシングが盛んなむつ市に転居し、年上の選手たちと練習を重ねた坪選手は、中学3年生の時に上京します。日本フェンシング協会の推薦を受けて「エリートアカデミー」へ。将来、国際舞台での活躍が期待される選手が厳選された中、現在の日本代表選手とともに練習、生活する場が坪選手の新たな拠点となりました。
大好きな地元・青森を離れる寂しさや「本当にやっていけるのか」と不安を抱いたと言いながらも、練習や食事などトップアスリートとして強さに磨きをかける環境で練習ができる喜びにあふれていました。練習時間や強度はそれまでと格段に違いましたが、「やめたい」とか「つらい」と思うことはなく、強くなれる喜びを抱いていた中、試練が訪れます。技やスピードに遜色はなくても、日本代表の練習に耐えるフィジカルがまだ備わっていなかった坪選手の体が悲鳴を上げ、相次ぐケガに見舞われました。
同時期に、ライバルの小久保選手が結果を出すことに焦りも生じる中、ケガをした左ひざの手術をしなければならない。苦しさや悔しさを抱いていた坪選手の背中を押したのが、10歳の弟、颯心(そうしん)選手から何気なくかけられた一言でした。
「颯登(はやと)なら大丈夫でしょ。ケガが治ればまた復活して、優勝できるよ」
気遣うばかりでなく、ごく自然に「大丈夫」と言ってくれる弟に勇気づけられ、坪選手は選手としてさらなる高みをめざすべく、復活に向け新たなスイッチを入れます。
2021年1月のジュニア・オリンピック・カップ・フェンシング大会で優勝し、コーチと
明治安田生命「地元アスリート応援プログラム」の存在を知ったのも、まさにそんな矢先のことでした。
「地元・青森の指導者の方から教えていただき、自分が活躍することで地元に貢献できる。盛り上げることができるなら本当に嬉しいし、素晴らしい。今の僕があるのは地元・青森での支えやサポートがあったからこそで、このプログラムを通して恩返しできるかもしれない、と思いましたし、ご支援をいただくことでさらに自分を強化したいと思い、応募しました」
今回のプロジェクトで集まった支援金は、海外遠征費や防具などの購入費に充てる予定です。
地元の方々の「頑張れ」を力に
幼少期を黒石市で過ごし、フェンシングでより強くなるためにむつ市へ転居しましたが、地元青森の“祭り”や“海の幸”は今も坪選手を支える活力で、世界と戦う源です。
「黒石と言えば『ねぷた』と『よされ』。子供の頃から慣れ親しんできたので、僕にとって夏といえば祭り、というぐらい根づいています。むつ市は海に近く、兄と釣りをしたり、海で遊んだりしたことも楽しい思い出ですが、何と言っても海産物が最高においしい。特にホタテやマグロは最高で、大会や合宿を終えて久しぶりに帰省した時においしい地元の海産物を食べるだけで癒されます(笑)」
小学生の頃から地元で活躍し、フルーレを専門とする兄、弟とともに“坪三兄弟”として慣れ親しまれ、今でも帰省すれば多くの人たちから「頑張ってね」「応援しているよ」とかけられる声も、坪選手にとっては頑張る力。故郷を離れた今だからこそ、坪選手はその温かさを実感していると言います。
「結果を出した時だけでなく、ケガをした時や、うまくいかない時も変わらず『頑張れ』と言ってくれる青森の方々の温かさが僕にとっては本当に大きい。地元の人たちに喜んでもらえるように頑張りたい、と心から思えるし、競技人生における活力。地元・青森は僕の大切な場所で、いつも自分を助けてくれる存在です」
青森を離れたことで、一層、青森の人々の温かさを実感しています
「勇気づけられる選手になる」
2022年に大学へ入学したばかりの18歳、坪選手が抱く目標は国際大会でのメダル獲得です。そのメダルとともに、2026年に地元・青森で開催される国体へ凱旋(がいせん)し、多くの人たちに「ありがとう」を伝える。大きな目標を叶えるために、体を鍛え、技を磨く、坪選手が描くビジョンは明確です。
「夢を実現するための力は少しずつつけられていると思うので、もっと強くなって、子供から高齢者の方々、幅広い年代を勇気づけられる選手になることが目標です。高い目標を抱く以上は、必ず実現するという強い意志、気持ちを持ち続けて頑張ります」
熱く、少し涙もろい最強フェンサーが青森から世界へ。大きな夢の実現に向けて、坪選手の進化と挑戦は続きます。
(取材・制作:4years.編集部)
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地元の人々に支えられてきた“坪三兄弟”、少し涙もろい最強フェンサーが世界へ 3歳からフェンシングに触れ、中2で世界を意識 フェンシング男子サーブル日本代表で日本体育大学1年生の坪颯登選手(はやと、青森県出身)が、初めて「世界」を意識したのは中学2年生の時でした。 元フェンシング選手で、地元・青森県黒石市の高校教諭でフェンシングを指導していた父の影響で、3歳の頃から体育館に行き、おもちゃの剣を持って遊ぶことからスタート。本格的に競技を始めてからは、2歳上の兄・颯馬(そうま)選手が最大のライバルでした。 「“プレイ、アレ(はじめ)!”の合図でお互いダッシュで駆け寄って、剣を振り回す。お兄ちゃんに負けたくない!というだけなので、今映像を見返すと恥ずかしいです(笑)。青森では兄だけでなく、中学生や高校生、大人の選手とも練習や試合をする機会に恵まれたのですが、どんな相手にも負けるのが悔しいから、泣きながら両手で剣を持って突いたこともありました(笑)」 祖父との別れを乗り越え、アジアカデ優勝 勝負に対する思いの強さと、熱さ。そして武器である「スピード」が生かすべく、中学2年の時に強化育成事業へ参加した坪選手は、本格的にサーブルへ挑戦することを決意しました。わずか7名という少数精鋭の強化チームに選出され、オーストラリア遠征へ。同年代ながら自分よりも身長やパワーで勝る海外勢と戦ったことが、坪選手の負けず嫌いの魂に火をつけました。 「(自分の方が)小さくてもスピードや技術では負けていない。でも試合になるとどうしてもあと一歩が届かず海外の選手に負けてしまうので、日本にいても常に年上の相手や、自分より強い相手に勝ちたいと練習から意識するようになりました」 2019年のアジアカデで、坪選手は様々な思いを背負って戦いました その結果が形になったのが、2019年のアジアカデ(U17)選手権大会でした。日本代表として出場した坪選手は、スピードを武器に勝ち進み、個人戦決勝は同じ日本代表で1学年上の小久保真旺(まお)選手と対戦。同世代のライバルで、それまではなかなか勝てなかった相手に臆することなく攻め続け、「気づけば勝っていた」と振り返ります。 会心の優勝でしたが、大会直前の悲しい別れも、坪選手を勝利へ導く力になりました。 「(父方の)祖父が亡くなったんです。見せることはできませんでしたが、すぐ父に電話をして『優勝したよ』と報告しました。少しは祖父に恩返しできたかな、喜んでくれるかな、と思ったら、電話をしながら泣いてしまいました」 地元を離れ、相次ぐケガ……響いた弟の一言 幼少期を過ごした黒石市から、フェンシングが盛んなむつ市に転居し、年上の選手たちと練習を重ねた坪選手は、中学3年生の時に上京します。日本フェンシング協会の推薦を受けて「エリートアカデミー」へ。将来、国際舞台での活躍が期待される選手が厳選された中、現在の日本代表選手とともに練習、生活する場が坪選手の新たな拠点となりました。 大好きな地元・青森を離れる寂しさや「本当にやっていけるのか」と不安を抱いたと言いながらも、練習や食事などトップアスリートとして強さに磨きをかける環境で練習ができる喜びにあふれていました。練習時間や強度はそれまでと格段に違いましたが、「やめたい」とか「つらい」と思うことはなく、強くなれる喜びを抱いていた中、試練が訪れます。技やスピードに遜色はなくても、日本代表の練習に耐えるフィジカルがまだ備わっていなかった坪選手の体が悲鳴を上げ、相次ぐケガに見舞われました。 同時期に、ライバルの小久保選手が結果を出すことに焦りも生じる中、ケガをした左ひざの手術をしなければならない。苦しさや悔しさを抱いていた坪選手の背中を押したのが、10歳の弟、颯心(そうしん)選手から何気なくかけられた一言でした。 「颯登(はやと)なら大丈夫でしょ。ケガが治ればまた復活して、優勝できるよ」 気遣うばかりでなく、ごく自然に「大丈夫」と言ってくれる弟に勇気づけられ、坪選手は選手としてさらなる高みをめざすべく、復活に向け新たなスイッチを入れます。 2021年1月のジュニア・オリンピック・カップ・フェンシング大会で優勝し、コーチと 明治安田生命「地元アスリート応援プログラム」の存在を知ったのも、まさにそんな矢先のことでした。 「地元・青森の指導者の方から教えていただき、自分が活躍することで地元に貢献できる。盛り上げることができるなら本当に嬉しいし、素晴らしい。今の僕があるのは地元・青森での支えやサポートがあったからこそで、このプログラムを通して恩返しできるかもしれない、と思いましたし、ご支援をいただくことでさらに自分を強化したいと思い、応募しました」 今回のプロジェクトで集まった支援金は、海外遠征費や防具などの購入費に充てる予定です。 地元の方々の「頑張れ」を力に 幼少期を黒石市で過ごし、フェンシングでより強くなるためにむつ市へ転居しましたが、地元青森の“祭り”や“海の幸”は今も坪選手を支える活力で、世界と戦う源です。 「黒石と言えば『ねぷた』と『よされ』。子供の頃から慣れ親しんできたので、僕にとって夏といえば祭り、というぐらい根づいています。むつ市は海に近く、兄と釣りをしたり、海で遊んだりしたことも楽しい思い出ですが、何と言っても海産物が最高においしい。特にホタテやマグロは最高で、大会や合宿を終えて久しぶりに帰省した時においしい地元の海産物を食べるだけで癒されます(笑)」 小学生の頃から地元で活躍し、フルーレを専門とする兄、弟とともに“坪三兄弟”として慣れ親しまれ、今でも帰省すれば多くの人たちから「頑張ってね」「応援しているよ」とかけられる声も、坪選手にとっては頑張る力。故郷を離れた今だからこそ、坪選手はその温かさを実感していると言います。 「結果を出した時だけでなく、ケガをした時や、うまくいかない時も変わらず『頑張れ』と言ってくれる青森の方々の温かさが僕にとっては本当に大きい。地元の人たちに喜んでもらえるように頑張りたい、と心から思えるし、競技人生における活力。地元・青森は僕の大切な場所で、いつも自分を助けてくれる存在です」 青森を離れたことで、一層、青森の人々の温かさを実感しています 「勇気づけられる選手になる」 2022年に大学へ入学したばかりの18歳、坪選手が抱く目標は国際大会でのメダル獲得です。そのメダルとともに、2026年に地元・青森で開催される国体へ凱旋(がいせん)し、多くの人たちに「ありがとう」を伝える。大きな目標を叶えるために、体を鍛え、技を磨く、坪選手が描くビジョンは明確です。 「夢を実現するための力は少しずつつけられていると思うので、もっと強くなって、子供から高齢者の方々、幅広い年代を勇気づけられる選手になることが目標です。高い目標を抱く以上は、必ず実現するという強い意志、気持ちを持ち続けて頑張ります」 熱く、少し涙もろい最強フェンサーが青森から世界へ。大きな夢の実現に向けて、坪選手の進化と挑戦は続きます。 (取材・制作:4years.編集部)
地元の人々に支えられてきた“坪三兄弟”、少し涙もろい最強フェンサーが世界へ
3歳からフェンシングに触れ、中2で世界を意識
フェンシング男子サーブル日本代表で日本体育大学1年生の坪颯登選手(はやと、青森県出身)が、初めて「世界」を意識したのは中学2年生の時でした。
元フェンシング選手で、地元・青森県黒石市の高校教諭でフェンシングを指導していた父の影響で、3歳の頃から体育館に行き、おもちゃの剣を持って遊ぶことからスタート。本格的に競技を始めてからは、2歳上の兄・颯馬(そうま)選手が最大のライバルでした。
「“プレイ、アレ(はじめ)!”の合図でお互いダッシュで駆け寄って、剣を振り回す。お兄ちゃんに負けたくない!というだけなので、今映像を見返すと恥ずかしいです(笑)。青森では兄だけでなく、中学生や高校生、大人の選手とも練習や試合をする機会に恵まれたのですが、どんな相手にも負けるのが悔しいから、泣きながら両手で剣を持って突いたこともありました(笑)」
祖父との別れを乗り越え、アジアカデ優勝
勝負に対する思いの強さと、熱さ。そして武器である「スピード」が生かすべく、中学2年の時に強化育成事業へ参加した坪選手は、本格的にサーブルへ挑戦することを決意しました。わずか7名という少数精鋭の強化チームに選出され、オーストラリア遠征へ。同年代ながら自分よりも身長やパワーで勝る海外勢と戦ったことが、坪選手の負けず嫌いの魂に火をつけました。
「(自分の方が)小さくてもスピードや技術では負けていない。でも試合になるとどうしてもあと一歩が届かず海外の選手に負けてしまうので、日本にいても常に年上の相手や、自分より強い相手に勝ちたいと練習から意識するようになりました」
2019年のアジアカデで、坪選手は様々な思いを背負って戦いました
その結果が形になったのが、2019年のアジアカデ(U17)選手権大会でした。日本代表として出場した坪選手は、スピードを武器に勝ち進み、個人戦決勝は同じ日本代表で1学年上の小久保真旺(まお)選手と対戦。同世代のライバルで、それまではなかなか勝てなかった相手に臆することなく攻め続け、「気づけば勝っていた」と振り返ります。
会心の優勝でしたが、大会直前の悲しい別れも、坪選手を勝利へ導く力になりました。
「(父方の)祖父が亡くなったんです。見せることはできませんでしたが、すぐ父に電話をして『優勝したよ』と報告しました。少しは祖父に恩返しできたかな、喜んでくれるかな、と思ったら、電話をしながら泣いてしまいました」
地元を離れ、相次ぐケガ……響いた弟の一言
幼少期を過ごした黒石市から、フェンシングが盛んなむつ市に転居し、年上の選手たちと練習を重ねた坪選手は、中学3年生の時に上京します。日本フェンシング協会の推薦を受けて「エリートアカデミー」へ。将来、国際舞台での活躍が期待される選手が厳選された中、現在の日本代表選手とともに練習、生活する場が坪選手の新たな拠点となりました。
大好きな地元・青森を離れる寂しさや「本当にやっていけるのか」と不安を抱いたと言いながらも、練習や食事などトップアスリートとして強さに磨きをかける環境で練習ができる喜びにあふれていました。練習時間や強度はそれまでと格段に違いましたが、「やめたい」とか「つらい」と思うことはなく、強くなれる喜びを抱いていた中、試練が訪れます。技やスピードに遜色はなくても、日本代表の練習に耐えるフィジカルがまだ備わっていなかった坪選手の体が悲鳴を上げ、相次ぐケガに見舞われました。
同時期に、ライバルの小久保選手が結果を出すことに焦りも生じる中、ケガをした左ひざの手術をしなければならない。苦しさや悔しさを抱いていた坪選手の背中を押したのが、10歳の弟、颯心(そうしん)選手から何気なくかけられた一言でした。
「颯登(はやと)なら大丈夫でしょ。ケガが治ればまた復活して、優勝できるよ」
気遣うばかりでなく、ごく自然に「大丈夫」と言ってくれる弟に勇気づけられ、坪選手は選手としてさらなる高みをめざすべく、復活に向け新たなスイッチを入れます。
2021年1月のジュニア・オリンピック・カップ・フェンシング大会で優勝し、コーチと
明治安田生命「地元アスリート応援プログラム」の存在を知ったのも、まさにそんな矢先のことでした。
「地元・青森の指導者の方から教えていただき、自分が活躍することで地元に貢献できる。盛り上げることができるなら本当に嬉しいし、素晴らしい。今の僕があるのは地元・青森での支えやサポートがあったからこそで、このプログラムを通して恩返しできるかもしれない、と思いましたし、ご支援をいただくことでさらに自分を強化したいと思い、応募しました」
今回のプロジェクトで集まった支援金は、海外遠征費や防具などの購入費に充てる予定です。
地元の方々の「頑張れ」を力に
幼少期を黒石市で過ごし、フェンシングでより強くなるためにむつ市へ転居しましたが、地元青森の“祭り”や“海の幸”は今も坪選手を支える活力で、世界と戦う源です。
「黒石と言えば『ねぷた』と『よされ』。子供の頃から慣れ親しんできたので、僕にとって夏といえば祭り、というぐらい根づいています。むつ市は海に近く、兄と釣りをしたり、海で遊んだりしたことも楽しい思い出ですが、何と言っても海産物が最高においしい。特にホタテやマグロは最高で、大会や合宿を終えて久しぶりに帰省した時においしい地元の海産物を食べるだけで癒されます(笑)」
小学生の頃から地元で活躍し、フルーレを専門とする兄、弟とともに“坪三兄弟”として慣れ親しまれ、今でも帰省すれば多くの人たちから「頑張ってね」「応援しているよ」とかけられる声も、坪選手にとっては頑張る力。故郷を離れた今だからこそ、坪選手はその温かさを実感していると言います。
「結果を出した時だけでなく、ケガをした時や、うまくいかない時も変わらず『頑張れ』と言ってくれる青森の方々の温かさが僕にとっては本当に大きい。地元の人たちに喜んでもらえるように頑張りたい、と心から思えるし、競技人生における活力。地元・青森は僕の大切な場所で、いつも自分を助けてくれる存在です」
青森を離れたことで、一層、青森の人々の温かさを実感しています
「勇気づけられる選手になる」
2022年に大学へ入学したばかりの18歳、坪選手が抱く目標は国際大会でのメダル獲得です。そのメダルとともに、2026年に地元・青森で開催される国体へ凱旋(がいせん)し、多くの人たちに「ありがとう」を伝える。大きな目標を叶えるために、体を鍛え、技を磨く、坪選手が描くビジョンは明確です。
「夢を実現するための力は少しずつつけられていると思うので、もっと強くなって、子供から高齢者の方々、幅広い年代を勇気づけられる選手になることが目標です。高い目標を抱く以上は、必ず実現するという強い意志、気持ちを持ち続けて頑張ります」
熱く、少し涙もろい最強フェンサーが青森から世界へ。大きな夢の実現に向けて、坪選手の進化と挑戦は続きます。
(取材・制作:4years.編集部)
支援期間終了
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支援者
46人
残り期間
0日
集まっている金額
396,000円
(達成) 目標金額:300,000円
達成率132%
2023年02月28日23:59に終了しました。
支援期間終了
起案者
坪颯登(明治安田生命・地元アスリート応援プログラム2022)
当制度を通じて、出身地や活動拠点地域など、サポートを受ける「地元」に対して貢献したいというアスリートの活動を支援します。
1,000円
お礼のメール
リターン
感謝の気持ちを込めて、お礼のメールをお送りします。
支援者の数 7人
支援期間終了
5,000円
お礼のお手紙+YELLS(支援アスリートの当該ブロック)
リターン
感謝の気持ちを込めて、お礼のお手紙、YELLS(支援アスリートの当該ブロック)をお送りします。
※「YELLS」は、地元アスリート応援プログラムに参加するアスリートに関する情報を、全国6ブロックごとにまとめた小冊子です。
支援者の数 39人
お届け予定:2023年4月
支援期間終了